思いがけない訪問者

2011.04.26

その年の六月のことだった。Mの生みの母親が突然乳児院を訪ねてきたのだ。いっしょに住んでいる内縁の中国人の夫と、そのあいだにできた四歳の女の子と三人でやってきた。母親は、いまの状態ではMを育てられそうもないので、親権を放棄するという意思確認の手続きをすませにやってきたのである。しかし、この乳児院で自分の子どもが元気に育てられているということを知りながら、ついにその母親はMに会わずに帰っていった。夜勤入りだった私は、ちょうど三人か玄関を出ていく姿にばったり出くわした。母親とMの似ているところといえば、二人とも目尻が少し吊り上かっているところであった。母親の頬骨の張った角ばった輪郭が、いまでも私の記憶に深く残っている。この日、母親が乳児院にやってきたことも知らずに、Mはいつもと変わらずベビー室で元気に遊んでいた。私は、玄関を出ていく親子を見送りながら、こみあげてくるやりきれない思いを感じていた。そして、その夜は夜食ものどを通らず、トイレに入り涙してしまった。乳児院へ就職してまもなくのことだった。ある女の子のケースを聞かされ、とめどもなく涙が出てきて、思わずトイレにかけこんだことがあった。そのとき以来である。Mの母親の所在がどのようにしてわかったのかというと、じつはこういうことであった。彼女には国籍がないために、知人の日本人女性の健康保険証を借りて病院へ行き、その女性の名前でMを出産した。一方、この保険証を貸した女性というのが、その後すぐ行方不明になってしまっていた。しかも半年前に離婚をしていたのである。日本の法律では、離婚後半年以内に子どもが生まれた場合、その子どもの戸籍は離婚した夫の戸籍に入籍されることになっている。そのため、Mはその保険証を貸した女性が離婚した夫の戸籍に入った。そしてしばらくしてその男性が、役所に行ってはじめて自分の戸籍に見知らぬ子どもの名前が記入されているのを知り、警察に届け出たというのである。Mの母親の話によると、自分は日本で生まれ、母親は日本人で沖縄の人であったという。父親は、貿易商をやっていて、イギリス系の中国人であったが、その父親に、二歳のときにイギリスに連れていかれたという。その後、父親は行方がわからなくなり、自分はイギリスの施設で育つたというが、どこまで確かな話なのか、警察でもよくわからないという。
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